2024年6月11日(火)19:00〜放送される「林修の今知りたいでしょ」にて、特別編として昭和・平成に起きた大事件が放送されます。
本記事ではホテルニュージャパンの社長だった横井英樹は一体どんな人物だったのかについて調査しました。
・ホテルニュージャパン社長「横井英樹」の経歴
・ホテルニュージャパン火災での横井英樹社長の問題発言・行動
・まとめ
詳しく見ていきましょう。
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ホテルニュージャパン社長「横井英樹」の経歴
まずは横井英樹の略歴について。
本名 | 横井千一 |
誕生日 | 1913年7月1日 |
没年月日 | 1998年11月30日(85歳) |
出身地 | 愛知県 |
中学校 | 高等小学校 |
横井英樹は、1913年7月1日に愛知県の貧しい農家に次男として生まれ、千両箱や千人力が好きだった祖母の影響で、横井千一と名付けられました。
父親はケガが元で働くことができず、家庭内暴力をふるうような状態だったそう。
そのため母親の機織りで何とか家計を維持していたようですが、中学校(当時の高等小学校)は1年で退学。
15歳で上京
15歳にて上京しますが、この上京を機に名前を千一から英樹に改名したそう。
上京後しばらくは「渡辺商会」という問屋に住み込みで働いていましたが、17歳の時に横井商店を開業。
その後は海軍中将の御用商人となり戦争成金となりました。
繊維問屋から、第二次世界大戦で必要となる軍需品製造に舵を切ったことで大成功を収めることに。
そして戦後になると不動産に狙いをつけ、各地の土地や建物を買い漁り資産を増やしていきました。
一部では資産が20億円以上になったとも言われています
白木屋乗っ取り事件
戦争成金となり戦後は不動産を買い漁ることで資産を増やした横井英樹は、その後昭和の乗っ取り屋として財界で有名な存在に。
箱根の富士屋ホテルやホテルニュージャパンなどの乗っ取り・買収などにも携わる中で、一躍彼の認知度が高まったのが白木屋乗っ取り事件でした。
政財界から認められたいという一心で乗っ取りを画策したものの拒絶されるも、最終的には協力を依頼した東急百貨店が乗っ取ることになりました。
恨みを買うこともあったそうで銃で狙撃されるといった事件に巻き込まれたこともあるそう。
そして上記でも出てきましたが、1979年にホテルニュージャパンを買収し自らが社長となりますが1982年にあの大火災を招くことになるのです。
ホテルニュージャパン火災での横井英樹社長の問題発言・行動
一代にして莫大な財を築き上げた横井英樹ですが、ホテルニュージャパン火災では問題発言と捉えられる言動や行動で批判を浴びることに。
- 「悪いのは火元となった宿泊客だ」と発言
- 「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます」と発言
- 「9階10階のみで火災を止められたのは不幸中の幸いでした」と発言
- 火災当時、人命救助よりもホテル内の高級家具の運び出しを指示した
- 火急の中、調理場に指示を出して大皿にサンドイッチを捜査員に提供
どれも普通の感覚ではあり得ない言動・行動ですよね。
防火設備や老朽化した壁の補修を行わなかったなどのずさんな管理体制がより被害を拡大させたにも関わらず、こうした発言・言動をしたことでバッシングされることに。
また本件では、横井英樹は業務上過失致傷罪で訴えられることになり、1987年には東京地裁で禁固3年の実刑判決を受けます。
1993年に刑が確定して1994年から服役し、1997年に刑期を終えています。
まとめ
本記事では日本を震撼させたホテルニュージャパン火災の社長である横井英樹の経歴やホテルニュージャパン火災での横井英樹社長の問題発言・行動について調査しました。
貧しい家庭で育ったながら、その後の努力により一代で財を築き上げてきた横井英樹。
しかしお金への執着からか、多くの命を預かるホテルとしてはあってはならない杜撰な管理体制や人命を後回しにするとも取れる数々の発言・行動が明らかに。
詳細を知れば知るほど、被害に遭われた方々がとても辛く大変な思いをされたということが容易に想像できます。
同じ過ちを二度と繰り返すことのないよう祈るばかりです。